「私、あなたにちょっとお話したい事があるの。碓氷君の事で」
思えば、その一言が全ての発端だった。



差し出されたのは真っ赤に熟れた林檎の実。
蛇の言葉は甘い甘い誘惑。
でも、林檎を食べてしまった女は――物語ではどうなった?




禁断の林檎1




生徒会の仕事も終わった放課後。いつものように美咲は最後の見回りをしていた。
聞こえるのは運動部の練習の声ばかりで、校舎内はしんと静まり返っている。
珍しく残って騒いでいる生徒もおらず、夕日に照らされた校舎は寂寥感を漂わせていた。
そんな中に一人でいると、考えはどうしても碓氷の事にたどり着いてしまう。
あのはぐらかされた一件以来、碓氷とはまともに顔を合わせていなかった。
確かに、人には話したくない事くらいあるだろう。
自分にだって、あまり進んで話したくない事はある。
でも、あの場面でさえはぐらかされるとは思っていなかった。
(―私は、あいつに信頼されていないのかもしれない)
頼ってばかりで、何も力になれていない。
生徒会長だといっても、それは学校内でだけの話で彼の力になれる事などほぼ無いに等しい。
信頼される要素など、思いつかなかった。
確かだと思っていた自分の事を好きだと言ってくれた言葉さえ、朧げになっていく。
本当に、彼は自分を選んでくれたのだろうか?
鬱々と考え込んでいると、いつの間にか生徒会室の前まで戻ってきていた。
見回りの前に役員は全員帰宅したので、中には誰も残っていないはずだった。
それなのに、人の気配がある。
(まさか・・・碓氷?)
彼が生徒会室に来る事もここ最近ではなくなっていたが、僅かな期待に胸が膨らむ。
自分を見ようとしない彼に対する苛立ちもあったが、会えない寂しさの方が強かった。
会いたい。話をしたい。
その思いに突き動かされ、勢いよく扉を開けた。
中にいたのは――



「お帰りなさい。毎日見回りしてるんですって?生徒会長って大変なのね」
窓際に立ったマリアが美咲に声をかける。
期待していた分だけ、落胆も大きい。
「宮園先生・・・なんでここにいるんですか・・・」
疲れを声に滲ませながら、美咲はやっとの事で返事をした。
そして馬鹿みたいだ、と自嘲する。来るわけない事は、わかっていたはずなのに。
人違いだったからと言って、宮園先生を恨めしく思うのはお門違いもいいところだ。
だが、マリアの次の一言でそれまで考えていたことは粉々に吹き飛んだ。


「ごめんなさいね。碓氷君じゃなくて」


あまりの衝撃に、美咲は凍りついた。
今、何と言ったのだろう。誰の名前が引き合いに出された?

「驚いたかしら。あなた達の事って、この学校の人誰も知らないのね」
びっくりしちゃった、と続けるマリアの笑顔は、いつもと全く変わらない柔和なもの。
「男嫌いな堅物生徒会長と、女に興味のないスーパーマン。組み合わせとしては考えにくいものね」
「・・・何の、事ですか」
ようやく絞り出した声は自分の声だと思えないくらい掠れていて、否定の意思を感じさせてくれない。
自分の事ながら、もどかしい。もっと強く否定しなくてはいけないのに。
「ごまかさなくてもいいわよ。私は知ってるんだから。それとも恥ずかしいのかしら?」
必死の思いで否定したのに、それすらあっさりと流される。
「なんで・・・」
「なんで知ってるのかって事でしょう?実は私、碓氷君の関係者なのよ。あなたが知りたいと思ってる事も、全部知ってる」
そこまで一気に話し、マリアは「ふふっ」と艶やかに笑う。
碓氷と英語で話していた事からも、関係者なのではないかという事は薄々わかっていた。
だが、はっきりと告げられると現実に頭がついていかない。
「それでね、鮎沢さん。今日の夜時間を空けてもらえないかしら。私、あなたにちょっとお話したい事があるの。碓氷君の事で」


――ずっと知りたかった事を、この人は教えてくれるのだろうか。


「もちろん親御さんには私から連絡させて頂くわ。明日は休みだし、帰りは遅くなるから私の家に泊まるって事でいいかしら」


――知ることができたら、この不安はなくなるのだろうか。


「あなたが知りたがってる事も、もちろん全部教えてあげる。どう?」
マリアの言葉に美咲の気持ちが揺らぐ。
こんな気持ちは初めてで、一人ではどう対応したいいのかわからなくて。ここ数日まともに眠る事はできなかった。
隠していた訳ではないのだが、結果的に事情を一切知らせていない後ろめたさからさくらやしず子に相談する事もできない。
もう何日、答えの出ないまま思考の海に溺れて朝を迎えた事だろう。
この不安を、取り除いてくれるのであれば・・・碓氷の事を、聞きたい。
全てを教えてほしい。
だが、思わず承諾の言葉が喉元までせり上がった瞬間、全てを聞いた後の自分の姿が脳裏を過った。
(碓氷の過去を全て聞いて、それでどうなる?)
確かに一時的に不安は解消されるかもしれない。だが、自分は本当にそれが知りたいだけなのだろうか。
――碓氷以外の口からそれを聞いて自分は満足なのだろうか?







「・・・お断りします」
美咲の返事を聞いて、今までにこやかに話していたマリアの顔から笑みが消えた。
「どうして?彼のこと、知りたいんじゃないの?」
「確かに知りたいとは思います」
だったら―と続けるマリアを遮り、美咲は言葉を続ける。
「でも、私は碓氷の口から直接聞きたいんです。あなたの口から聞いても、それはあいつに信頼されたって事じゃない。私は、知りたいって事以上に碓氷に信頼されたいんですよ」
だから、結構です。
そう締めくくった美咲を、奇妙なものを見るかのようにマリアは眺める。
正直、こんな返事が返ってくるとは思っていなかった。
相手はたかだか一般高校生。目の前に甘い餌をぶら下げれば、後先考えずに飛びついてくるはずだった。
それにこの相手は女。女というのは貪欲で、自分が欲しいと思ったものは何をしてでも手に入れる生き物なのだ。
どんなに奇麗ごとを並べたって、それが真実。自分がそうであるように。
なのに、何故この女は自分の誘いを断るのだろう。チャンスだとわかっているのに、わざわざ手放すような真似をするのだろう。
女という生き物をよくわかっているはずのあの男。その彼が落とされたと聞いて、耳を疑った。
どれだけ演技が上手い女なのかとわざわざ見に来てみれば、何の変哲もない女子高生。
あの男は、現実を見ていないだけだと思った。
だから、自分のいないところで過去を嗅ぎ回る女だと教えてやれば現実に引き戻せると思っていたのに――。
「どうかされましたか?」
美咲の怪訝な声に、はっと我に返る。
一瞬のうちに笑顔を取り繕い、なんでもないと返事をする。
こんなところで失敗する訳にはいかない。
一つの策が駄目なら、もう一つの策を打たねばならないのだ。
彼を、「こちら側」へどうしても引き戻すために。


「わかったわ。じゃあ、彼の事は教えない。でも、私が鮎沢さんに個人的に相談させてもらいたい事があるの。だから今日の夜、つきあってもらえないかしら?」
柔和といわれる笑顔を浮かべて問えば、バイトも今日は休みだから問題ないと返事が返ってくる。
何も気付いていない美咲の返事にマリアはこっそりほくそ笑んだ。
やはり子供だ。何も知らない子供を言いくるめるなんて、簡単なこと。
一つ目の策は使えなくなったが、まだ手は残っている。『あの男』の言ったとおりになるのが少しだけ癪に障るが、この際目を瞑る事にする。
「じゃあ、親御さんに連絡をしてもらえる?鮎沢さんから説明してもらった後に私が改めて挨拶させていただくから」
美咲に携帯を出させ、母親に連絡をさせる。その後電話を受け取り「生徒会の業務の事で相談がある」と話したが、全く疑われる事もなく通話は終了した。
教師という肩書も便利なものだ。
「さ、じゃあ行きましょうか。私の車が駐車場に停まってるからそれで移動しましょう」
自分の事を疑いもしない美咲を乗せ、マリアは静かに車を出した。






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