春爛漫





「・・・遅い」
イライラと教室の時計を見上げると、碓氷を待ち始めて既に30分が経過しようとしていた。
進路表の提出を忘れていたと言って職員室へ行ったのだが、あまりにも遅すぎる。
今日は生徒会の仕事もバイトもなく、明日は土曜日。
尚且つ母親と妹は用事があるとかで今日の夜から明日の夕方まで家を空ける事になっていた。
このタイミングをあの碓氷が見逃すはずもなく、明日の午後からのバイトの時間までは碓氷の部屋で過ごす約束を取り付けられてしまったのだ。
「すぐに戻るから待ってて」と言われて大人しく待っていたのだが・・・流石に待ちくたびれてきた。
何せ、する事がないのだ。
勉強をしようにも、一人しかいない教室で電気をつけるのは躊躇われる。
外の明かりだけで字を読むには、ちょっと薄暗い時間帯になってしまった。
(先に行って、勉強でもしておこうかな・・・)
幸い、鍵は碓氷から預かっている。
碓氷の携帯へ先に行く旨を伝えるメールを送り、美咲は教室を後にした。




下校時刻を過ぎ、まだ部活をやっている今の時間帯はこの辺りは人通りが極端に少ない。
最近変質者が出るという連絡もあったが、この状態ならばそれも頷ける。
警察が見回りを強化してくれているというが、全く姿は見当たらなかった。
(本当に見回ってくれてるのか・・・?)
美咲が疑問に思ったその時。
美咲の目の前に、季節はずれのロングコートを着た男が突然立ちはだかった。
そしてそのまま、怪訝な視線をものともせずコートの前を美咲に向けて開く。

――男のコートの中身は・・・裸だった。

(こいつ・・・例の変質者!!)
頭に血が上り、咄嗟に目を逸らそうとした瞬間に何か違和感を感じた。
一瞬外した視線を無意識に戻し、違和感の元を探る。
戸惑ったのは変質者の方だ。
悲鳴を上げて逃げる事を予想し、コートを広げたまま追いかける体制を整えていたのに標的から観察されはじめたのだから、当然といえば当然だろう。
しかも、明らかに何かを訝しんでいる表情で。



美咲と変質者の間に、奇妙な緊張感が漲る。
鳥の鳴き声すらせず、静けさのみが支配する空間。
お互いにピクリとも動かず、視線すら固定されたまま。
変質者は、美咲の表情を。
美咲は、変質者の体を。
緊張のあまり、変質者の頬を汗が伝い落ちる。
その汗が地面に染みを作った時・・・美咲の放った一言により均衡は崩された。


「・・・小さい・・・?」


美咲の放った呟きを耳にした瞬間、変質者は咄嗟に意味を理解する事ができなかった。
今まで、そんな事を言われたことなどない。
そもそも、サイズに自信がなければこんな事など出来るわけもない。
だが――この女は今、何と言った?



一方、美咲はようやく得心がいきすっきりとした表情で一人頷いていた。
まじまじと見た事はないが、肌を重ねた回数は両手の指では足りない程。さすがに記憶の隅くらいには相手の体の事が残っている。
「そうか、だから違和感があったのか。なるほどなー」
知らず自分の口から零れた言葉に、はっと我に返った。
・・・自分は今、何を思い返していた?
瞬時に頬に血が上り、その場でわたわたと慌てふためく。
そしてその場に本人がいるわけでもないのに、どう誤魔化そうかと必至で頭を回転させ――変質者の存在を思い出した。
(折角捕まえるチャンスだったってのに、ミスった・・・!!)
チッと舌打ちをし、変質者が逃げたであろう方向へ視線を向けた美咲が見たものは・・・
地面に蹲って震え、独り言を繰り返す変質者の姿だった。
よくよく独り言を聞いてみると、「嘘だ、嘘だ、嘘だ・・・」と延々と繰り返している。
一体どうしたというのだろうか。
警察に届けるべきであるという事はわかるが、この変貌ぶりが理解できない。
対応方法について考えあぐねていると、後ろから肩を叩かれた。



「女の子一人じゃ危ないから、待っててねって言ったでしょ?襲われたらどうするの」
「う・・・悪い・・・。ちょっと寒かったし、先に帰って勉強でもしておこうかと思って・・・」
不機嫌そうな碓氷の言葉に、身を縮めつつ振り返る。
「反省が足りない。何回注意しても言うことが聞けない悪い子には・・・」
そこで碓氷は一旦言葉を切り、美咲の耳元へと唇を近付けた。
「・・・お仕置きして体に教え込んであげなきゃね?」
耳に息を吹き込むように低く囁かれ、美咲の頬が真っ赤に染まる。
その反応を見て口角をニヤリと釣り上げ、更に碓氷は言葉を続ける。
「もしかして、お仕置きしてほしくてわざと先に帰ったのかな?美咲ちゃんってばやらしいね」
・・・美咲の中で、何かが音を立てて切れた。



「んな訳あるか!!この変態宇宙人!!」
美咲の拳を軽く受け流し、碓氷はけらけらと笑う。
「ひどいなー。俺ご主人様なのにー」
「誰がだ!!」
凄まじいスピードで飛んできた通学鞄を受け止め、そのまま美咲との間合いを詰める。
飛んできた拳を掴んで引きよせ、じたばたと腕の中で暴れる体を宥めつつようやく碓氷は疑問を口にした。
「――で、さっきからあそこでぶつぶつ言ってるの誰?」
「・・・あ。忘れてた・・・」
変質者の方を見ると、先ほどと全く変わらない姿勢のままぶつぶつと繰り返している。
「パッと見変質者みたいだけど・・・まさか美咲ちゃん、あいつに何かされたの?」
碓氷の言葉に勢いよく首を振る。
何もされていないと言えば嘘になるが、触られた訳でも抱きつかれた訳でもない。
下手なことを言って、あの時何を思い出したのか碓氷に知られるのだけは避けたかった。
「じゃあ・・・美咲ちゃん、あいつに何かした?」
更に激しく首を振る。
思い当たる事は一つだけだが、絶対に知られる訳にはいかない。
「どこかぶつけるか何かしたんじゃないか?捕まえられて良かったよなー」
自分のセリフが棒読みであり、尚且つ碓氷から投げかけられる胡散臭げな視線で全く信じられていないことはわかる。
だが、ここで引くわけにはいかない。
・・・今夜の自分のためにも。
「さー、警察に電話しなきゃな!碓氷君!」
夕焼けに染まりつつある空の下、美咲の声が白々しく響き渡った。



この日、美咲は『男は一般的にサイズにこだわる生き物である』という一生役に立たない事を学んだのだった。






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