『それ』を目にしたのは偶然。
眼下で繰り広げられる光景に誘発されたのは、不安。
わき上がったどす黒い感情は、理性を蝕んでゆく。




罪と罰




その日、碓氷はいつものように屋上の定位置に座り校庭を見下ろしていた。
だいぶ日も短くなり、シャツ一枚では肌寒さを感じる。
そろそろ中へ戻ろうか、そう思い体の向きを変えると、裏庭を歩く美咲の姿が目に入った。
校舎の裏側に位置している為、そこはかなり薄暗い。女の子が一人で歩くにはあまり適さない場所だ。
いつになったら、彼女は自分も「女の子」である事を自覚してくれるのだろう。
溜息を吐きつつフェンス際まで歩を進めた所で、視界にもう一人生徒が現れた。
それを目にして、碓氷の視線が鋭くなる。
恋人同士というはっきりした関係ではない為、彼女の行動を束縛する権利はない。誰と話していようと、彼女の自由だ。
だが、それでも面白くはない。話しかけたのがあの転校生ならば尚更だ。
自分の知らない彼女を知っている。それだけでも十分に腹立たしいのに、あろう事か想いを寄せてまでいるのだ。二人きりの時間など許せる訳がない。
知らず、握った拳に力が籠る。
そんな碓氷に気付かず、「あの転校生」・・・深谷は美咲へと近付いて肩を叩いた。
驚いたように振り向き、美咲は怪訝そうに深谷へ何か声をかけている。
そんな美咲へ深谷も二言、三言と言葉を返し――
碓氷は、目を見開いた。
深谷の言葉を聞いた美咲が、柔らかく笑ったのだ。
会話までは流石に聞こえなかったが、あの男の言葉に対しての反応である事は間違いない。
顔を赤くして挙動不審になっている深谷と、呆れたようにそれを見ている美咲はまるで初々しい恋人同士のようだった。
クラスマッチでの1シーンが頭を過る。


自分の隣から、去ってしまうのだろうか。
掌の中から、奪われてしまうのだろうか。
――あの、ボールのように。


視界から完全に二人が見えなくなるまで、碓氷はその場を動く事が出来なかった。




見回りを終えた美咲が生徒会室に戻ると、外はとっぷりと日が暮れていた。
だいぶ遅くなってしまったようだ。
途中、深谷に捕まってしまったのが原因だろう。二人で手分けして見回れば早いはず!と手伝いを申し出てくれたのはいいが、食べ物の気配(生徒が隠していたであろう菓子類)に誘われて普段は見回らないような細部まで回る羽目になり結局遅くなってしまった。
「女の子一人じゃ危ない!!」と言い張る深谷を「お前はバイトに遅れるだろうが!!」と無理やり帰らせる一幕もあった為、体力も大幅に削られてしまった。
今日はバイトがなくて良かった・・・そんな事を考えつつ帰る支度をしていると、パチンという音と共に突然目の前が暗くなった。
驚いて壁際のスイッチに目を向けるが、暗闇に慣れていない目をいくら凝らしても状況を把握する事は出来ない。
電気代がもったいない、と廊下の電気を消していた事を心底後悔しつつ、そろそろと手探りでスイッチの方向へと向かう。あと少しで壁際に辿り着く、というその時。
「ねえ、さっきあいつと何話してたの?」
突然横から声をかけられ、危うく悲鳴を上げそうになった。
「う・・・碓氷!?」
喉元までせり上がった悲鳴をどうにか飲み込み声の主の名前を呼ぶ。さっき生徒会室に入った時は確かに誰もいなかった。気配を消して入ってきたのだろうか。
(やっぱりこいつ、人間じゃない・・・!!)
だが、正直暗い所はあまり得意ではない為、碓氷の出現にこっそり安堵する。相手が宇宙人でも、一人でいるよりはよほどマシだ。
「丁度良かった。お前の後ろの壁に、蛍光灯のスイッチがあるだろ。つけてくれないか?」
「嫌だ」
「・・・は?」
予想もしなかった断りの言葉に、頭が一瞬真っ白になる。
「そんな事より、さっきの質問に答えてよ。あいつと何話してたの?」
碓氷が「あいつ」と呼んでいるのは、恐らく深谷の事だろう。「仕事を手伝ってくれただけ」そう答えればいい筈だ。
だが、喉は凍ってしまったように動かない。
「ねえ。答えて?」
声は、確かに碓氷の声だ。だが、雰囲気が鋭くて・・・正直怖い。暗闇で相手の姿が一切見えない事も、一層不安を掻き立てる。
知らず、一歩後ずさると相手も距離を詰めるように一歩近づく気配がした。
一歩、また一歩。
それを繰り返しているうちに、とうとう窓際の壁まで追い詰められてしまった。背中に当たる冷たい感触が、これ以上逃げられない事を伝えてくる。
――仕方がない。覚悟を決め、振り絞るように声をかけた。
「体調でも悪いのか?いつもと何か違う気が・・・」
ふっ、と相手が動く気配がし、顔の両側に手を突かれた。どうやら何も見えないのはこちらだけで、相手からは見えているらしい。やはり暗い廊下から入ってきたのだろう。
「別に体調は悪くないよ。・・・ねえ、俺の質問に答えてくれないのは、言えないような事だから?」
「は?そんな事は・・・」
否定の言葉を伝えようとした瞬間、唐突に唇を塞がれた。
突然の激しい口付けについていけず、あっという間に息が上がる。舌を絡められ、きつく吸い上げられて意識が霞む。
酸素が足りなくなってきた頃に漸く解放され、荒い息を吐く。それでも唇は触れ合わせたまま、碓氷は質問を重ねてくる。
「・・・いつもみたいにあいつから愛の告白でも受けてたの?」
息が上がった状態で、尚且つ突然飛躍した話の内容にもついていけず否定の言葉すら満足に出てこない。
「何を・・・馬鹿なこと・・・」
やっとの思いで言葉を口にすると、再び荒々しく口付けられた。
先程の余韻もあり、あっという間にまた意識が霞む。酸素が足りず、頭がぼうっとする。立っていられなくなり、ずるずると壁にもたれるように座り込むと相手も一緒に床へ腰を下したようだった。
酸素は取り込めるようになったものの、まだ思考はうまく回転してくれない。ぼんやりと壁に体を預けてひたすら呼吸を繰り返す。
だが、碓氷の次の言葉で一気に気だるい気分は吹き飛ぶ事になる。
「もしかして物影に連れ込まれてイケナイコトでもしちゃった?あそこからここまで戻ってくるのにかなり時間かかったもんね」
――美咲の頭の中で何かが切れる音がした。




凄まじい音が部屋中に響き渡り、頬に走った痛みで碓氷は我に返った。
目の前の美咲を見ると掌が振り抜かれた形になっており、力一杯平手打ちされた事を察する。
そしてその瞳には凄まじい怒気と、僅かな涙が浮かんでいた。
「あいつはそんな奴じゃない!!仕事を手伝ってくれただけだ!!それに・・・私がそういう事をする人間だと思ってるのか!?」
目尻に浮かんだ涙の粒が少しずつ大きくなってゆく。
「私は深谷の事は何とも思っていない!そんな対象として見た事もない!!」
そこまで叫んだ途端に浮かんでいた雫が零れ落ち、後を追うようにぼろぼろと雫が伝う。
自分は今、彼女に何を言った?何をしようとした?
彼女がいなくなる不安に駆られて、奪われる前に自分の手で傷つけて立ち直れなくしてしまおうと――確かにそう思ったのだ。
自分の浅ましさに目の前が暗くなる。
「・・・ごめん。酷い事言った」
座り込んだ姿勢のまま美咲をそっと抱き締めると、胸板を拳で叩かれた。あまりの強さに僅かに咳き込むが、甘んじて受ける。これは暴走した自分への罰なのだから。
もう数発は殴られる事を覚悟して、そのまま腕の力を強くしたが――
「碓氷のアホ!!さっきみたいな事をされるのはお前一人で十分だ!!」
美咲の台詞を聞いて別な意味で衝撃を受けた。
つまり、自分ならそういう事をしても構わないという訳で。
これでは遠回しな愛の告白を受けたも同然だ。こんな状況だというのに、頬が赤くなっていくのがわかる。
「・・・鮎沢?」
「なんだよ!」
「自分の言ってる事、わかってる?」
「・・・!!」
恐る恐る確認をしてみれば、本人も気付いたらしくみるみるうちに顔が真っ赤になった。
どうやら無意識だったようだ。
「あ、あれは・・・っ、ちょっとした言葉のアヤで・・・」
しどろもどろになって弁解する美咲の頭を軽く撫で、「大丈夫だよ。わかってるって」と声をかけるとほっとしたようにこちらを見た。
本当は色々追及して苛めて、もう一回くらい言ってほしいところだが今日は自戒の意味を込めてここまでにしておく。
「本当にごめん。もう遅いし、帰ろっか。さっきのお詫びに送ってくよ」
会長用の机に戻って美咲へ鞄を渡し、壁際に置いておいた自分の鞄を手に取る。
蛍光灯は消えたままだが、いい加減目も慣れてしまった為特に問題はない。
そのまままだ目が慣れていない様子の美咲の手を引いて、生徒会室を後にした。



翌日、碓氷の頬は掌の形に変色して腫れ上がり学校中の噂の的となる。
――恐るべし、武闘派メイド。
と碓氷が思ったかどうかは定かではない。




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