他愛もない話をしつつ外を眺めていた美咲は、流れる風景が見知ったものである事に気がついた。 でも、どこへ行く道だったのかを思い出すことができない。 「先生、どこに向かってるんですか?」 てっきりマリアの家へ行くものだと思っていたが、偶然見知った道を通っているだけなのだろうか? 「んー、内緒。鮎沢さんを驚かせようと思って。着いたらわかるわ」 どうやら家に向かっているわけではないらしい。 「確か、どこかに向かうときにこの道は通った気が・・・」 思い出せない事に若干苛立ちを覚えつつ独りごちていると、突然車を路肩に停められてしまった。 「ごめんなさい、もしかして鮎沢さんが通りたくない道だったかしら!?私ったら、何にも考えずにホントにごめんなさい!!」 不意の謝罪に驚いていると、更にマリアはエスカレートしていく。・・・見当違いな方向へ。 「驚かせようってそればっかり考えちゃって、道の事なんか気にもしてなかったわ。私って駄目な女ね・・・」 涙ぐみそうな勢いに美咲は慌ててフォローに入る。 「いえっ、ちょっと見たことあるなーって思っただけで、嫌とかそんな事はないですよ!このままの道で大丈夫です」 「本当に・・・?」 潤んだ目で上目づかいに見つめられ、美咲は力強く頷く。 『女性は守るもの』というポリシーを持った彼女に、否定など出来る訳がなかった。 「よかった!私、鮎沢さんの嫌がる事しちゃったのかと思っちゃった」 先ほどまでの潤んだ瞳が嘘のように明るく笑い、マリアは車を出す。 (悪い人じゃなさそうだし、ちょっと頼りないところはあるけど先生だし。大丈夫だろ) 笑顔を取り戻したマリアにほっと胸を撫で下ろし、美咲はシートに身を沈めて大人しく従ったのだった。 禁断の林檎2 着いたと知らされ、車を降りたのは豪奢な造りの建物の敷地内だった。 どこかで見たような気もするが、思い出せない。 考え込んでいるとマリアに「行きましょう」と促されてしまい、仕方なく美咲は歩き出した。 風景に見覚えはないものの、建物の雰囲気がどこかと似ている。 そしてそれは、あまりいい思い出のある場所ではない。 (・・・くそっ、どこだ?) 記憶を辿ろうにも、雰囲気だけではそれも難しく。 はっきりと思い出したのは、マリアに誘導されて一つの部屋に通された時だった。 「ここは・・・雅ヶ丘!!」 「やっとわかったんかいな。相変わらず鈍い女やな」 部屋に突然響いた声の主は―― 「五十嵐会長・・・」 制服を着崩し、壁にもたれてこちらを眺めているのは雅ヶ丘の生徒会長、五十嵐虎だった。 「騙すような真似してごめんなさい。実は私、五十嵐会長とも関係者なの。こうでもしないと鮎沢さん来てくれないでしょ?」 マリアの言葉に振り返ると、マリアが艶然と微笑んでいる。 「拓海の事を教えてあげるって言ったのに、全然靡かないんですもの。ちょっと焦っちゃった。ここに来る途中でも気付かれそうになって裏口からの道に変える羽目になったし」 呼ばれた名前に美咲の胸が小さく痛む。 あの会話の中に出てきていたから、マリアが碓氷の事を拓海と呼んでいる事は知っていた。 だが、何故自分の胸が痛いのかは未だによくわからない。 そんな美咲を無視して虎とマリアの会話は進んでいく。 「だから正攻法で行っても無駄やって言ったやろ。鈍いくせに妙な所で鋭いからな」 「あなたを疑うわけじゃないけど、一度試してみたかったのよ。拓海を落とした女なんて、今までいなかったんだし」 「まー、とりあえずこいつがここに来ればええわ。よくやったな、マリア。戻ってええぞ」 「お褒めに与り光栄ですこと。今度何か埋め合わせお願いね」 それじゃあ後はごゆっくり、と美咲に言い残し、マリアは去って行った。 「私に、何の用ですか。宮園先生まで使って・・・」 美咲の鋭い視線に怯みもせず、虎はニヤリと笑う。 「あいつがなー、どうやら本気でこっちの世界を捨てる気になったみたいでな。このままうまくいっても面白ないし、一石を投じてみようかと思ってな」 (あいつ・・・碓氷の事か?こっちの世界、ってのは・・・) 「まぁ、こっちの世界の事はあんたには関係ないかもしれんが、一石投じようと思ったらあんたを利用するのが最適でな。ご足労願ったっちゅー訳や」 話しながら、何か木切れのようなものに虎は火をつけた。細い煙が立ち上がり、甘い香りが部屋へと漂い始める。 「どうせあんたの事や。あいつの事は知りたくないとか何とか言ったんやろ?だったらこっちも教えるメリットはない。素直に教えて欲しいって言ってたらこんな手段に出る事もなかったんやけどな」 「あなたには関係ない事だ。こんな所に連れてきてどういうつもりだ」 すぐにわかる、と返答をして、虎は更に言葉を続ける。 「それにしても、マリアは優秀な女や。自分の役目をよくわかっとる。ちゃんと『教師として』あんたの親にも連絡したやろ?捜索願でも出されると面倒やしな」 「宮園先生は、やっぱりお前とグルだったのか・・・」 教師だからといって信頼した自分の迂闊さに臍を噛む。 相談があるというのも、口実の一つだったのだろう。 考えなくてはいけないことはたくさんあるというのに、なんだか頭がぼうっとする。 言葉を発する事すら億劫になってきた。どうしたというのだろうか。 「あんたについて色々調べてみたが・・・暗示にかかりやすいんやろ?あいつから気をつけるように言われんかったか?」 虎が何か言っているが、頭の中に霞がかかったようでよくわからない。 甘い香りが、頭の芯をしびれさせる。 「その、匂い・・・消してもらえないか。苦手で・・・気分が・・・」 「気分は悪くないはずや。むしろ高揚してるやろ?」 やっとの事で言葉を紡ぎだしたが、返された言葉を聞き取る事すらできない。 立っていられず、その場に座り込んで床に手をついた。 いつの間にか目の前の床につま先があり、誰かが自分の顎を持ち上げている。 「家の借金を返す生活に疲れて、前に断った雅ヶ丘への編入、奨学金の件をもう一度頼みこみに来たけど俺に断られた。んで、体を交換条件に出されて承諾した・・・ってシナリオはどうや?」 借金を返す生活に疲れた・・・?私は疲れていたんだっけ・・・。確かにずっと、何か不安を抱えていた。 奨学金・・・もう一度頼みこみに来て・・・体を差し出した? ぼんやりと言われたことを頭の中で反芻する。 「ずっと不安だったんやろ?その不安を無くしたくないか?」 そうだ、ずっと不安だった。らしくもなく夜眠れなくなったり、授業に身が入らなかったり。 バイト中だって、ずっと何かを考えていた。 ・・・私は、借金を返す生活に不安を抱えていた? 言われてみればそうだったような気がする。 ちくり、と自分の中で何かが痛んだが、その事を考えるのも億劫で。 「このままあんたらがうまくいくのも面白ないしな。これであいつがどんな反応するか見物や。どうせあんたの性格だと、まだ一線は越えてないんやろ?」 くく、と喉を鳴らして目の前の男が笑う。 こいつは、誰だ?何の事を言っている?・・・わからない。 ぼんやりと考えていると、顎を持ち上げた手はそのままに首筋を何か柔らかくて濡れたものが這った。 「んっ・・・」 鼻にかかった声が漏れ、びくりと体が震える。 感じた感情のままに、反射的に手を振り上げたが振り下ろす直前で手首を攫まれた。 「ここまでこの香を吸って、暗示も効いてきてるのにまだ反抗できるんかいな。ほんま、面白い女やな。まぁ・・・それもここまでや」 さっき感じた感情は、とても嫌なものだった気がする。でも、その感覚すら曖昧で。 いつの間にか抱き上げられ、どこかへ移動させられているようだ。体がふわふわする。 そのうちにどこかへ下ろされ、甘い匂いが一層強くなった。 「この香はな、男が吸っても何も効果はない。ちょっと甘ったるい香りがするくらいやな」 何かが軋む音がして、重みのある物が体の上に圧し掛かってくる。 「あつくて、あせが・・・きもちわるい」 何とかしろ、という意味を込めて自分の状況を伝えたのに、笑うばかりで何も対処してはくれない。 ・・・こいつは、誰だ?いつもと何かが違う気がする。 「おまえ、だれだ?いつもと、ちがう・・・」 「さぁ?誰やろな。でも、もう何もわからんやろ?」 わからない、そう言われた途端、先程までわかっていると思っていた事も手のひらから滑り落ちた。 瞬間的に記憶を何かが掠めるのに、掴むことができない。 「男には効果がなくても、女にはある効果があってな。思考能力を奪って、体の感覚だけ敏感にさせるんや。ま、平たく言えば媚薬やな。おまけに暗示効果までついてる。あいつの事で不安定になってるあんたになら効果抜群やろ」 頭にかかった靄は一層濃くなり、何も考えられない。 相手が何を言っているのか、誰なのかすらわからない。 誰かの名前を呼びたいような気もしたが、その名前を思い出す事ができない。 記憶を掴みかける度にするりと手からこぼれおちていく。 肝心なところではごまかされ、本心がわからないあの男。 「あいつは一人でなんでも出来る。あいつを必要としてるのはあんただけや」 低く独特のリズムで紡がれる言葉が、頭の中へ刻みこまれてゆく。 言葉は蛇のように体をくねらせ、思考の隙間に入り込む。 (・・・そうだ、私はいつも頼ってばかりで、何も返せてない) さっき色々なものが手のひらから零れ落ちていったと思ったけれど、本当は元々何もなかったのかもしれない。 「あいつにあんたは必要ない」 (私は、・・・にとって必要な存在じゃない) 考えないようにしていた事がはっきりと形になっていく。 「もう、疲れたやろ?それにあいつがあんたを必要としないなら、あんただけ頼るのは迷惑になると思わんか?」 そうかもしれない。一方的に頼るだけの関係なんて、御免だ。 「そろそろ解放してやったらどうや」 そっと開いた手のひらには、何も残っていなかった。あの時繋いだ手のぬくもりさえ、思い出す事ができない。 いや、手を繋いだと思っていたのは自分だけで、本当は自分が一方的に掴んでいただけなのかもしれない。 美咲の頬を、一筋の涙が伝った。 |