齧った林檎は甘い甘い蜜の味。
咀嚼し嚥下すれば、甘さと僅かな苦みが胃の腑へと広がってゆく。
甘くて苦い知恵の実がもたらすものが何なのか。
知っているのは食べた者だけ――





禁断の林檎4






不覚にも飛んでいた理性を瞬時に引き戻し既視感のままに入口へ視線を向けると、果たしてそこには碓氷が立っていた。
「何やってんの?」
怒気を隠そうともせず、低い声で碓氷が問いただすと虎はゆっくりと美咲に覆い被せていた体を起こした。
見せつけるように濡れた口元を親指で拭い、ニヤリと笑ってみせる。
「いつもいい所で邪魔する奴やなー」
「他の相手になら別に邪魔しないよ?前にも言ったよね。鮎沢はそんな簡単に触っていい女じゃないの」
いつか聞いた台詞に、はっと笑って言葉を返す。
「言っとくけどな、今日はこの女の方からここに来たんや。んで、奨学金の事で泣きついてきたから交換条件を出したら承諾しただけやで?嘘だと思うならこの女に聞いてみいや」
ドアを蹴破られたおかげで充満していた煙は粗方外へ流れ出てしまったが、香の匂いはまだ強く香っている。
この男の目の前で暗示の仕上げをしてやれば、もっと面白い事になるに違いない。
ぼんやりと天井を見つめている美咲を碓氷から見えるように抱き起こし、背後から耳元へ唇を寄せた。
「あんたは自分の意思でここに来た。そして奨学金と交換条件に、俺に体を預けた。そうやな?」
ここまでは碓氷にも聞こえるように言い聞かせ、そこから美咲にだけ聞こえるようにぐっと声を落とす。
「・・・あいつにあんたは、必要ない」
びくん、と体を震わせ、美咲が反応を示す。
「必要・・・ない?」
微かな声に、畳み掛けるように低く言葉を重ねる。
「そうや。必要ない。そろそろあいつを解放してやるって決めたんやろ?」
「・・・・・」
ゆるゆると目の前の碓氷へ視線を向け、美咲は沈黙した。
そんな美咲を碓氷は黙って見ている。
いつまで経っても返事を返さない美咲に焦れ、虎は背後から更に言葉を重ねる。
「迷う事なんてない。頼ってばかりの関係なんて嫌やろ?あいつがあんたに頼る事なんて、一切ない」
「・・・・・」
「そろそろ認めたらどうや。楽になりたいやろ」
「・・・・・」
「一言、認めるだけでいいんや」
「・・・・・い」
「聞こえん。もっかい言ってみい」
微かに聞こえた美咲の言葉が聞き取れず、虎は美咲の口元へ耳を寄せる。
その瞬間。


「やかましい!!!」


耳鳴りがする程の怒声が響きわたり、虎は反射的に体を離した。
過去他人に暗示をかけた事は数回あるが、こんな反応をされたのは初めてだった。
鼓膜などに異常はなさそうだが、片耳はしばらくの間使い物にならないだろう。
右耳を何度か自分で触ってそう判断する。
使い物にならないのは一時的なものなので特に問題ないが、痺れるような痛みがあるのはまずい。
この状態ではこの男を取り逃してしまうだろう。
予想外の展開に舌打ちをするが、そんな事をしても当然痛みがなくなる筈もなく。
乱入される事は想定していなかった為、外へ人を控えさせてもいなかった。
自分の不利な状況を理解し、再度虎は舌打ちをした。


一方、虎が離れたことで支えるものが無くなった美咲の体は後方へとゆっくり崩れ落ちてゆく。
先程まで緩く開かれていた瞼は完全に閉じられ、意識を失っているであろう事が伺える。
その背中がベッドにつく寸前に抱きとめたのは、素早くベッドに近づいた碓氷の腕だった。
「暗示の仕上げ段階で、負荷をかけすぎるとオーバーヒートしちゃうんだよ」
知らなかった?と言いながら碓氷はいつの間にか脱いでいた自分の上着を美咲にかけ、抱き上げる。
「まぁ普通は気を失うくらいで、怒鳴りつけたりはしないんだけど・・・流石は鮎沢だよね」
呟きながら微かに微笑むと、瞬時に表情を一変させ耳を押さえたままの虎を冷たく見下ろした。
「それにコイツはあんたが言ったような事をする女じゃないんだよ。ちょっと馬鹿にしすぎじゃない?」
「・・・なんで暗示の事がわかったんや?」
苦々しげに言葉を吐き出す虎を尻目に、碓氷は美咲を抱いたままベッドサイドへ歩み寄る。
そのまま美咲を肩に担ぎ上げ、空いた手で小さな木切れのようなものを摘み上げた。
「この匂いってさ、暗示効果があるんだよね。ついでに催淫作用も。俺がわからないとでも思った?だったら五十嵐虎も相当の馬鹿だね」
「・・・さすがは『碓氷』って訳か・・・」
「その言われ方は気に入らないけど、まーそういう事。ついでにこれ何個かもらってくね。どうせあんたの事だから、仕上げを残してただけで暗示はかけてあるんでしょ?」
何も答えずに表情を歪めた虎を見て「やっぱりね」と呟き、碓氷は木片を更に数個摘み上げポケットへと滑り込ませる。
「あんたの性格なら、絶対そういう保険はかけとくだろうしね。暗示を解く気もないだろうし、自分でやるよ」
碓氷の言葉を聞いた虎は、突然噴き出した。
「他人がかけた暗示を解けるとでも思ってるんか?いくらあんたが“碓氷”でも無理やで。一生解けなくなる可能性もある。自信過剰もたいがいにせえや」
虎はニヤニヤ笑いながら、黙って無表情にこちらを見ている碓氷を見据えて言葉を続ける。
「でも、俺なら解ける。当然鍵だって知っとるしな。どや、その女を俺に預けてみんか?暗示解いてやるで」
ただし、返す時に処女のままかどうかは保証せんけどな。そう付け加え、更に笑みを深くする。
「こんな面白い女は見たことないしな。興味がある。最終的に暗示が解けた状態であんたの元に戻るんなら、安いもんやろ?」
その言葉が終るか終らないかの瞬間、何かが虎の顔面に向かって空を切った。
咄嗟に身をかわした虎の頬を掠め、何かが背後の壁に突き刺さる。
何事かと背後の壁に目をやった虎が見たものは、壁に深々と突き刺さった香木の欠片だった。
微かな熱さを感じて頬へ手をやった虎の手を、ぬるりとした生暖かい液体が汚す。
ゆっくりと視線を戻すと、柔らかな笑顔を浮かべた碓氷と目が合った。
「ホントは頭に当ててやろうかと思ったんだけど、面倒な事になるからさー。あんたが避ける方向まで考えて、わざわざ外してあげたんだから感謝してよね?」
柔らかな笑顔とおどけた口調ではあるが、その眼は全く笑っておらず声は地を這うような低いものだった。
先程のスピードで飛んだ木片が頭に当たれば、まず間違いなく命はないだろう。
この男なら、――やりかねない。
「俺はもうあんたら側には戻らないよ。さっき全部片をつけてきた。誰に理解してもらおうとも思ってない」
そこまで言い切って一旦言葉を切り、眼光を鋭くして碓氷は言葉を続ける。
「だけど・・・これ以上俺の邪魔をするなら、相手になるよ?」



暫くの沈黙の後、虎は深々と息を吐いた。
「興醒めやな。折角面白い事になると思っとったが・・・もうええわ」
吐き捨てるような台詞を聞き、碓氷は美咲を横抱きに抱え直して踵を返した。
「もう二度と俺達の目の前に姿現さないでね。次はホントにやっちゃうかもよー?」
ひらひらと手を振り、そのまま振り返る事もなく碓氷は部屋を出て行った。
最後に目にしたのは、碓氷の肩越しに見える流れるような黒髪。
血で汚れた掌を見下ろすと、さらさらとした指触りが蘇る。
柔らかな白い肌、華奢な手足。滑らかな肌の感触。
――あの女に触れている間は、常に付きまとう苛立ちが薄れたような気がした。
妙な喪失感を感じ、チッと舌打ちをする。自分らしくもない。
面白い玩具に逃げられてしまった事が残念なのだろう、そう思いベッドから立ち上がる。
怪我の手当も必要だし、「あの男をこちら側に戻す為」と欺いていたマリアへの対応も必要だろう。
思考を巡らせつつ足を一歩踏み出した途端、何か柔らかいものを踏みつけた。
何かと思い拾い上げると、赤いものが目に入る。
そういえば脱がせた時に、リボンを床に放ったような記憶がある。
指先にぶら下げたまま目の高さまで持ち上げると、香の匂いとは違うあの甘い香りがふわりと香った。
誘われるように赤い布地に顔を寄せ、深く息を吸い込むと僅かに薄れる苛立ち。・・・だが、それも一瞬の事だった。
リボンの持ち主が自分の側へは二度と戻らない事を思った瞬間、激しい苛立ちに駆られてそのまま床へと叩きつける。
「バシッ!!」
大きな音をたてて床に戻ったリボンを一瞥し、そのまま扉へとを向かった。
所詮、自分にとっては全てが遊びにすぎない。
学校も、家の事も、女の事も。
苛立ちが薄れるなど、錯覚だ。どの女だろうと大した違いはない。
そう結論付け、虎は部屋を後にした。
――自分の抱いていた感情にすら、気付く事もなく。






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