傷つけないために、守るために起こした行動のはずだった。
触れられない事は辛かったが、彼女と共にある未来のために耐えようと思った。
それが、正反対の方向に働く事になるなんて思いもしなかった。





禁断の林檎5





自室に帰り着いた頃にはすっかり日が暮れ、部屋の窓から差し込むビル群の薄明りが家具の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。
ベッド代わりにしているソファーの上へ意識のない美咲の体を横たえ、そのまま傍らへと座り込む。
気を失ったままの彼女の寝顔を覗き込むと、憔悴の影が色濃く浮かび上がっていた。
乱れた髪へ指を絡めて口づけると、あの香木の香りが微かに漂う。
これほど時間が経過しても匂いがとれないという事は、あの男はよほど強く香を焚いていたようだ。
抵抗などできる状況ではなかった事が容易に伺える。
本当に、間一髪だった。
あと少し自分が遅ければ、彼女の心に深い傷を負わせてしまうところだった。
体の傷はすぐに癒えても、心の傷が完全に癒えるのは難しい。
自分が囚われたあの笑顔が、強気な瞳が永遠に失われてしまうところだったのだ。
影を背負った美咲など、見たくはない。彼女にはずっと笑っていてほしい。――自分の隣で。
そう願って、今回は行動を起こしたはずだった。
彼女の問いをはぐらかし、不安を抱いている事もわかっていなから放置した。距離を置いた。
そうする事で、余計な心配をかけずに片づけられると思って。
だが、結果はどうだろう。
不安に付け入る形で彼女は暗示をかけられ、危うくあの男の毒牙にかかるところだった。
しかも手元に奪い返す事は出来たが、暗示はまだとけていない。いくら自分でも、暗示をとけるか否かは五分五分といったところだろうか。
かけたままにしていた上着を取り去ると、釦の弾け飛んだシャツと引き裂かれたキャミソール、そしておびただしい数のキスマークが現れる。
自分は、何があっても彼女を守れると思っていた。
――なんて傲慢だったのだろう。その傲慢さが、彼女を傷つけた。
どんなに強がっていても、彼女は「女の子」で。いつも自分の身を顧みない彼女にそう言い聞かせているのは自分なのに。
汗で額に張り付いた前髪を払おうと手を動かすと、美咲の唇と目尻に赤い雫が滴り落ちた。不思議に思って自分の掌へ目をやると、傷がついてそこから血が流れ出ている。拳を強く握りすぎて、爪が掌を傷つけたようだ。
慌てて指先で美咲の唇を拭うが、思ったよりも量が多く拭い去ることができない。そうしているうちに目尻へ落ちた雫が流れてしまい、白い頬へ一筋の痕が残った。・・・まるで、泣いているように。
いたたまれなくなり、舌先で頬を清めると口中に広がる錆びた味。
そのまま唇へと舌先を移動させ、同じように血を舐め取ると錆びた味と共に柔らかな感触が伝わってくる。
――この唇すら、自分は守る事が出来なかったのだ。
どれほど勉強が出来ようが、スポーツが出来ようが、彼女を守れないのであれば全く無意味なのに。肝心なところで自分は役立たずだった。
白い肌に浮き上がるキスマークを見ていると、どす黒い感情が頭をもたげる。
そんな感情を持つ資格すら、自分にはないというのに。自分自身の身勝手さに、吐き気がした。




「う・・・ん・・・」
微かに上がった声に、思考の海へ沈んでいた意識を引き戻された。
意識が戻ったのかと思ったが、薄い瞼が開く事はなく未だ目覚めてはいないのだと知る。そもそも、あれだけ負荷がかかった状態ではもうしばらく目を覚ます事はないだろう。
再び彼女の額へ手を伸ばし、今度こそ汗で張り付いた前髪を払う。湿った感触が指先に伝わり、かなり発汗している事を知る。
恐らく香の作用によるものだろう。かなり寝苦しそうだ。
少しの時間考え込んだ後、碓氷はソファーの傍から立ち上がり風呂場へと向かった。




準備を終えた碓氷は風呂場から戻ると、美咲の体をソファーから抱き上げる。
そのまま踵を返し脱衣所へ戻ると、床に敷いたバスタオルへ美咲を座らせ徐に服を脱がせ始めた。




この状態のままの彼女を自宅に帰す事など、出来る筈もない。
あの男の事だから、捜索願などを出されないよう手まわし済みだろう。少し癪ではあるが、この際それをありがたく利用させてもらう事にする。
幸い、明日は土曜。学校は休みだ。バイトも確か休みだったと記憶している。
なのであれば、今夜は自宅へ泊めるのが一番の得策だろう。暗示の詳細な内容も確認しなければならない。
寝苦しそうだと思ったのは確かだが、それ以上に他の男に触られた状態のまま、放置しておくのは嫌だった。
そして、いつ目を覚ますかもわからない美咲。
その要素を全て解決する方法は一つしか思い浮かばなかった。




バスタオルで美咲の素肌を隠し、自分は服を着たまま風呂場へと足を踏み入れた。
そのままバスチェアーに腰かけると、美咲を膝の上に座らせて自らの体で倒れないように支え、丁寧に髪を洗い始めた。
リンスまで終えると美咲を抱き上げ、湯船へと体を沈める。
バスタオルを外したが、バスミルクを入れているおかげで美咲の体が見える事はない。手探りでバスタオルを一纏めにし、それで体を撫でて清める。
こんな状況でも、欲しいと思う女の体を見て欲情しない訳がない。だからあえて自分は服を脱がず、美咲の肌も極力見えないようにした。
こんな状態の彼女に襲いかかる訳にはいかないのだ。
漣立つ心を抑え込み、清め終えた美咲の体を抱き上げる。そのまま脱衣所へと向かい、手早く水分を拭い去った。
体が冷えないよう乾いたタオルで体を包み、壁へ靠れるように座らせる。
倒れない事を確認し、自らの濡れた衣服を脱ぎ去り腰に適当にタオルだけ巻きつけると美咲を再び抱き上げ、居間のソファーへと足を向けた。




素肌に直接自分のシャツを着せ、そっとソファーへ横たえると手足の細さが一層際立った。
サイズの合わない服を着ているせいだろう。
この華奢な体で学校を支え、家族を支え――あの仕打ちに耐えたのだ。
それを阻めなかったのは、そこまで追いやったのは自分自身。
心を苛むのは激しい自己嫌悪。
虎にぶつけた感情は、他ならぬ自分自身にも向けたものだった。
こんな状態になるまで彼女を追い詰めた自分が許せない。
「・・・ごめん、鮎沢」
呻くように絞り出された言葉は誰の耳にも届くことなく、闇に紛れて消えた。






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