一方的に頼るだけの関係なんて、嫌だった。
お互いに支えあって、手を繋いで一緒に歩いて行きたかった。
ただ荷物になる事しかできないのであれば――・・・





禁断の林檎6





手早くシャワーを浴びてリビングへと戻ると、ソファーの上に体を起こした人影が見えた。
「鮎沢、目が覚めたの?」
声をかけてみるが、反応はない。
ソファーの傍へ行こうと歩み寄り、顔を覗き込んでもう一度声をかける。
「鮎沢?」
それでも反応はない。
不安に駆られて肩を軽く揺らすと、やっと伏せられていた瞳がこちらを見た。
だが、その瞳に普段の強い意志の力は感じられない。自分の格好を見ても全く動揺する様子もない。
自分は衣服は身につけているものの、上半身はかろうじてシャツを羽織っているだけの状態。
普段の彼女であれば、赤面しない筈がない。
そして何より、彼女自身は何も身につけず素肌にシャツ一枚のみの状態なのだ。
それでも全く気にしていないという事は、やはりまだ完全な覚醒状態に至っていないようだ。
そんな事を考えていた碓氷へ、美咲がぽつりと一言漏らした。



「・・・お前、誰だ?」



その言葉を聞いた瞬間、頭を何かに殴られたような衝撃を受けた。
色々な可能性は予想していたが、その中でも最悪の部類に入るパターン。
本当に、あの変態は人の嫌がる事が本当に大好きなようだ。
やはりあの時ちゃんと頭を狙うべきだった、と心底後悔する。
だが、後悔していても何も変わらない。大きなため息を一つ吐くと、床へ膝をつき彼女と目線を合わせた。
「気分は悪くない?」
小さく頷く頭をあやすように軽く撫で、「俺の事分らない?」と問いを重ねる。
「・・・分らない。ここはどこだ?私は雅ヶ丘にいたはずだが・・・」
返された答えに密かに眉を顰め、記憶が抜けているのは自分に関する事だけらしい、と悟る。
そして、恐らくあの変態がこじつけた『雅ヶ丘にいた理由』を真実として捉えているであろう事も。
なのであれば、この状態のまま彼女の口から語らせると暗示が固定化されてしまう可能性があった。
――思っている事を言葉にしてしまえば、脳がはっきりと認識してしまう。
すぐさま立ち上がり、雅ヶ丘から持ってきた香に火をつけ皿へ載せると甘い香りが部屋中へと広がった。

サイドテーブルへと香を置き、ソファーの傍らへと戻り床へ直接腰を下ろす。
「この、匂いは・・・?」
不安そうに彼女がこちらを見上げる。
「なんか緊張してたから、リラックスできるお香を焚いてみたんだけど・・・この匂い、嫌い?」
「嫌いじゃない、けど・・・何か、嫌だ」
言葉が途切れがちになり、匂いを振り払うように嫌々と首を振る。
眉根を寄せ、きつく閉じられた目の縁はうっすらと赤く染まり、香がどの程度効いているのか手に取るように分かる。
怯えるように自らの肩を抱き身を縮める彼女の頭を優しく撫で、すぐに済むからちょっとの間だけ我慢してね、と囁いた。


「俺の言葉にだけ集中して、質問に答えてね。わからなければわからないって教えてくれればいいから」
独特のリズムをつけ、低い声でゆっくりと語りかけると微かに小さな頭が上下する。
「今日、学校が終わってからどこに行ったの?」
「・・・雅ヶ丘」
「誰かと一緒に?」
「奨学金の話をもう一度する為に一人で行った」
そこだけ妙にはっきりと答えられた一言に目を眇め、碓氷はあくまでもペースを崩さず質問を続ける。
「じゃあ、もう一度授業が終わったところから思い出してみようか。いつもの見回りには行ったの?」
「・・・行った。生徒会の仕事が終わって、いつも通り見回りをして生徒会室へ・・・」
「生徒会室には、誰もいなかった?」
「いなかった。私一人だった。そこで雅ヶ丘の事を思いついた」
「生徒会室へ戻ってきたとき、部屋を出る前と違う事はなかった?」
「・・・そういえば、誰か人の気配がした」
「その人はどこへ行ったのかな?生徒会室に戻った時は一人だったんだよね?」
美咲はその言葉にしばらく考え込み、違う、と言葉を漏らした。
「・・・そういえば、一人じゃなかった。宮園先生がいて・・・」
いい子だね、と囁いて頭を撫で、それでどうしたの?と続きを促す。
「・・・先生に誰かの何か・・・大切な事を教えてあげるって言われて・・・」
「誰かって、誰?」
しばらくの沈黙の後、思い出せない、と美咲は首を振る。
そこの部分に関しては、流石に鍵が必要なようだ。相手の用意周到さに胸中で舌打ちをしつつ、先に進める。焦っても仕方がない。一つづつ暗示を解かなくては――。
「それで、教えるから雅ヶ丘に行こうって誘われたの?」
「・・・違う。最初は、その事で話をしたいから今晩時間が欲しいって言われたけど・・・本人の口から聞きたいって言って断ったんだ。私はそれを知りたいんじゃなくて・・・信頼されたかったから」



美咲の言葉に碓氷は目を見開いた。
自分の過去を条件に呼び出されたものだと思っていたのだ。
気になる相手の過去を教えると言われてついていく事が粗探しだとは思っていない。
あれだけ煽っておいて、彼女に真剣に質問された途端に一番最低な方法ではぐらかしたのは自分なのだ。
それを教えると言われて、ついていかない方がむしろおかしいくらいだとさえ思っていた。
それなのに、彼女はそうはしなかった。
『過去を知る事よりも、信頼を得たい』―― それが彼女の出した答え。
いつも彼女は、自分の予想なんて軽々と越えていくのだ。


「――ありがとう」


今の彼女に伝えても、意味がわからないだろう事はわかっている。
それでも伝えずにはいられなかった。自分が本当に嬉しかった事を、彼女に伝えたかった。
意味はわからずとも、その気持ちが伝わったのか微かに美咲の口元が綻んだ。
その口元に軽く口づけ、先を促す。
「続きを教えて?」
小さく頷き、美咲が口を開く。
「・・・他に相談したい事があるって言われて、先生の家に泊まる事になったんだ。それで、車に乗せられて・・・着いたのが雅ヶ丘だった。知らない道だった筈なのに・・・」
恐らく、裏道と職員用の通路を使ったのだろう。無駄に敷地の広いあの学園内であれば、生徒会室に着くまで気付かれずに連れていくことが可能だ。
「・・・生徒会室に通されたらそこに五十嵐がいて、先生は・・・いなくなって・・・」
突然美咲の言葉が途切れがちになり、シャツの胸のあたりを強く握りしめる。
「・・・この、香が、部屋の中に・・・何も考えられない・・・わからなくなって・・・」
碓氷は小刻みに震え始めた細い体を優しく抱き締め、あやすように背中を軽く叩く。ここでやめてしまっては、暗示を解く事ができない。痛々しい彼女の様子に、思わず口を突きそうになった「もういいよ」という言葉を飲み込んで先を促した。
「何がわからなくなったの?」
暫しの沈黙の後、美咲はゆっくりと口を開いた。
「・・・私が、何を掴んでいたのか」


「私は何も返せてない。いつも頼るばかりで、全然役に立ててない」


「たぶん、あいつは一人で何でもできる。いつも私の先を走ってて、転びそうになったら手を差し出すんだ」


ぽつりぽつりと、美咲の独白が零れおちる。


「でも、私はあいつの為に何もできてない。一方的なお荷物でしかないんだ。・・・どんなに頑張っても」


「あいつのどこまでが冗談なのか、本気なのか。それすらわからなくなってしまった」


「私は、あいつにとって必要な存在じゃないのかもしれない・・・」


絞り出すように最後の一言をつぶやくと、美咲は深く息を吐いて瞳を閉じた。







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