触れて初めて、戻れない事を知る。
身の内に取り込めば、毒のように広がる。
一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。
それはそれぞれの、禁断の林檎。





禁断の林檎7





指先が白くなるほど強く毛布を握り締め、美咲は言葉を続ける。
「・・・でももう、それが誰なのかもわからない。それに私は、今までの自分自身を否定するような事をしてしまったから。だからもう、思い出せないままでいい。・・・その方がいいんだ。あいつに軽蔑されたら・・・きっと私は、耐えられない」
「自分自身を否定するような事って、どんな事?」
碓氷の言葉に美咲はびくりと体を揺らし、俯いた。
重力に従って流れた黒髪が、美咲の表情を隠す。
床に腰を下した碓氷の位置からであれば、表情を伺う事は簡単にできる。しかし、敢えてそうはせず美咲の横、ソファーの上へ移動し、無言でそっと宥めるように肩を叩く。
しばらくそうしていると、美咲が重い口を開いた。
「・・・私は、借金を返す生活に疲れて・・・奨学金の事と引き換えに、・・・体を差し出したんだ。最低な事だってわかってたのに、自分をあの男に売ったんだ」
「さっき、雅ヶ丘に行く時の事を聞いたよね。もう一度、その時の事を思い出してごらん。鮎沢は、自分の意志で雅ヶ丘に行ったの?」
「・・・行ってない」
「生徒会室で宮園先生と会ったんでしょ?奨学金の事はどこで考えたの?」
「・・・考えて・・・ない。・・・私は・・・奨学金の事で雅ヶ丘に行ったんじゃない。そうだ、宮園先生に連れていかれて・・・」
ぼんやりとした声音のままではあるものの、美咲の声が僅かに大きくなる。
「私は、自分を差し出した訳じゃない・・・!!」
その瞬間、美咲の目の前で碓氷が小さく指を鳴らした。
はっ、と体を強張らせ、美咲が碓氷を見上げる。
「その通り。今日の状況、思い出せた?」
こくりと頷く頭を軽く撫で、言葉を続ける。
「よくできました。・・・じゃあ次は、忘れちゃった『掴んでいたもの』の事を教えて?」


「・・・正確には、『掴んでいたと思っていたもの』なんだ。私がそう思い込んでいただけなのかもしれない。色々な、なんだか温かいものが手の中にあると思っていたんだけど・・・わからなくなってしまった」
そこで美咲は一旦言葉を切り、きつく握りしめていた両手をそっと開いて目の前にかざした。
闇の中に白く浮かんで見える掌をじっと見つめ、再び口を開く。
「・・・確かに手を、繋いだと思っていたんだ。でも本当は、私が一方的に握ってるだけだったのかもしれない・・・」
長く重い息を吐き出し、美咲は口を閉ざす。
しんとした闇が、部屋を支配した。高層階の為か外の音も全く聞こえず、まるで時が止まったかのような沈黙が降りる。





――その沈黙を破ったのは、碓氷の言葉だった。
「鮎沢、よく聞いててね。今から言う事は、全部俺の本音だから」
そこで一旦言葉を切り、美咲の両手を自分のそれでそっと包み込み真っ直ぐに瞳を見つめる。
「俺は今まで、何も感じずに生きてきた。楽しいとか悲しいとか、思った事もない。前にちょっと話したけど習い事は何でも一通りできたし、努力するって事すらしたことがなかった。このままくだらない人生を生きて、そのまま死ぬんだと思ってた。――鮎沢に会うまでは」
ぼんやりとこちらを見つめ返す美咲の頬をゆっくり撫でる。
暗闇の中、窓から入ってくるビルの明かりを映して仄かに光る美咲の瞳を見つめていると、自分の心の中を見ている気分になる。
ひたすら闇が続く中、仄かに灯った小さな道標。
自分が人間らしい感情を感じた、自ら触れたいと思った初めての光。
「何にでも一生懸命で、周りが見えなくなるくらいに努力して。鮎沢がいるだけで、白黒の俺の世界に色がついてく。・・・鮎沢には、理解できない事かもしれないけど・・・。日常なんて、目の前を勝手に通り過ぎていくだけの白黒映像だと思ってた」
「何でも出来るなんて事は、そんなに大したことじゃない。だって、鮎沢がいないと俺は生きてないのと同じだから。鮎沢が傍にいないと、俺は死んでるのと一緒なんだよ。・・・俺には、鮎沢が必要なんだ」
「私が、必要・・・?」
そう、と頷き細い肩を引きよせ至近距離で潤んだ瞳を見つめる。
「だから、もう俺を一人にしないで。鮎沢が傍にいないなんて、耐えられない」
「・・・ずっと俺の傍に居てよ」
最後の一言は、振り絞るように低く。どこか縋るような響きが含まれていた。
その言葉を聞いた美咲の瞳が見開かれ、一筋の涙が頬を伝った。




だらりと体の横に投げ出されていた美咲の腕が、おずおずと碓氷の背に回る。
それを感触で知り、碓氷は目を見開いた。
「・・・鮎沢?」
「私は、いらないって言われるのがずっと怖かったんだ。でも、確認する事も怖かった。―だから、雅ヶ丘であいつに『碓氷に私は必要ない』って言われて、・・・逃げたんだ」
どこかぼんやりとしていた声音は意志の力を取り戻し、揺れていた瞳もしっかりと定まっている。
そして何より、――自分の名前を口にしている。
「俺の事、わかる?」
はっきりと頷くのを目にした瞬間、碓氷はきつく美咲を抱き締めた。
背中に回された腕にも力が籠るのを感じ、暗示がとけた事を実感する。
「私も、碓氷が必要なんだ。――ずっと傍に居て欲しい」
普段素直ではない美咲の口から零れた言葉に、碓氷の頬が緩んだ。
少しだけ体を離し、美咲の涙を舐め取り眦へ口付ける。
「前に言ったでしょ?逃がすつもりはないって。鮎沢が嫌って言っても、ずっと傍にいるから」
前髪をかき上げ、額にも口づけを一つ。こめかみ、瞼、頬とあちこちへ口づけを降らせてゆく。
「だから、安心して。俺はずっと鮎沢の傍にいるから。他の何を信頼できなくても、俺の事だけはずっと信じててほしい。俺も、鮎沢の事だけは絶対に信じる。約束するよ」
そっと美咲の掌が碓氷の頬を包み込み、互いに真っ直ぐ見つめあう。
「私も、ずっと碓氷の傍にいる。碓氷を信じるよ。だから、私の事も…信頼してほしい」
そのままどちらからともなく距離を縮め、唇を重ねた。
深くなる事はないものの、互いの存在を確かめ合うような優しい口づけ。
時折唇を離しては抱き締め合い、じっと温もりを分かち合う。


もう離れない
もう離さない


言葉にならない誓いは、お互いだけのもの。
絡めあった熱と吐息は、闇の中へと溶けて行った。





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